東京地方裁判所 平成9年(ワ)27725号 判決 1999年1月22日
原告
貞盛弘美
右訴訟代理人弁護士
錦戸景一
同
池内稚利
被告
シグナ傷害火災保険株式会社
右代表者代表取締役
ジョナサン・イー・ニュートン
右訴訟代理人弁護士
木下慶太郎
同
荒井紀充
主文
一 原告の請求を棄却する。
二 訴訟費用は原告の負担とする。
事実及び理由
第一請求
被告は、原告に対し、金一六〇〇万円及びこれに対する一九九七年一月一日から支払済みまで年六分の割合による金員を支払え。
第二事案の概要
本件は、原告が被告を退職する際、被告との間でした、原告が期間を三年、被告と競業関係に立つ損害保険会社に再就職しないことを条件として、被告が原告に対し一六〇〇万円の補償金を支払う旨の合意(以下「本件競業避止契約」という)に基づいて、原告が被告に対し、その履行を求めた事案である。
一 当事者間に争いのない事実
1 被告は、損害保険業を主たる目的とする株式会社である。
2 原告は、昭和三八年に被告に入社し、平成八年一二月三一日付けで被告を退職した。
二 争点
本件競業避止契約の成否
1 原告の主張
原告は、退職に先立つ平成八年一一月五日ころ、被告に対し、退職金のほかに特別退職金の支払いを受けられないかと打診したところ、同月六日、被告から本件競業避止契約の申込みがあったので、同月一五日、退職届を提出するとともに、これを承諾し、本件競業避止契約が成立した。
原告は、被告が提示した本件競業避止契約に関する契約書に該当する「誓約書」に署名していないが、その時点ですでに本件競業避止契約は成立していたから、「誓約書」に署名しなかったことは、本件競業避止契約の成否に影響を与えるものではない。なお、原告が「誓約書」に署名しなかったのは、「誓約書」第四項に「原告は一六〇〇万円以外に被告からいかなる支払いをも受ける権利がないことを確認する」旨の記載があったため、被告の退職金規程による退職金及び退職年金(以下「退職金等」という)の支払いを受けることができないのではないかとの危惧を抱いたからであり、本件競業避止契約の締結を拒否する趣旨ではなかった。
2 被告の主張
平成八年一一月六日、原告と被告代表者との間で、本件競業避止契約に関する話し合いがもたれた事実は認めるが、被告にとっては、被告の規定どおりの退職金等のほかに、被告が一方的に支払うのではなく、原告にも競業避止義務を負わせて補償金を支払うというのは極めて異例なことであったため、正確性を期するために契約書を交わして正式に契約が成立するものと考えていたのであり、「誓約書」の提示が契約の申込みというべきであるところ、原告は、自らの選択で契約書に該当する「誓約書」に署名しなかったのであるから、本件競業避止契約は成立していない。
また、「誓約書」第四項の記載については認めるが、原告が署名しなかった理由は否認する。
第三当裁判所の判断
一 (書証略)、原告及び被告代表者各本人尋問の結果によれば、次の事実が認められ(当事者間に争いのない事実を含む)、右証拠中これに反する部分は信用できず、採用しない。
1 日本においては、当初アメリカ法人であるシグナインシュアランスカンパニー日本支店が損害保険業務等の営業をしていたところ、平成八年四月、右日本支店が組織変更され、被告が日本法人として設立された。
原告は、昭和三八年六月、後にシグナインシュアランスカンパニーに吸収合併されたAFIA(通称「ホーム保険会社」)に入社して以来、シグナインシュアランスカンパニー及び被告に勤務してきた。その間、原告は、平成四年一月、人事本部長に任命され、平成八年四月一日には、被告の理事に就任するとともに人事部長を兼任し、従業員の採用、退職、人員配置等の人事全般に従事してきており、平成八年七月一六日にジョナサン・イー・ニュートン(以下「ニュートン」という)が被告の代表者に就任して以降、会社の組織上、ニュートンに直属することになった。
2 原告は、平成八年七月一六日に被告の代表者に就任したニュートンの人員削減方針に疑問を感じたことから、被告を退職することを考え始め、同年一一月五日、被告の副社長であった松本尚平(以下「松本副社長」という)に対し、退職の意思を表明するとともに、規定の退職金等のほかに年収分程度の特別退職金の支払いを受けることができるかどうかについて打診した。それに対し、松本副社長は、外資系の損害保険会社に再就職しない条件なら可能と考えられること、被告代表者に原告の打診について話しておくことを回答した。松本副社長から原告の希望を聞いた被告代表者は、かねてから、被告の取締役であるトラバース・カーニーらから、原告が被告を退職してその出身地である広島県において、被告と競業関係に立つ損害保険会社のために被告の従業員の引き抜きを行う可能性があるので注意するように言われていたため、被告においては異例なことではあったが(ただし、ニュートンが被告の代表者に就任する以前、退職者に対し「退職金の追加払い」という名目で五〇〇万円が支払われた事例はあったが、その支払いに条件は付されていなかった)。競業避止義務を条件として原告に対して補償金を支払うことに同意した。
そこで、松本副社長は、同日午後、原告に対し、被告代表者が了解したこと、被告代表者は原告がなぜ直接被告代表者に退職の意思表明をしないのかと言ったことを伝えた。
翌同月六日、原告が被告代表者の部屋にあいさつのために赴いた際、被告代表者は、原告に対し、期間を三年として、原告が被告と競業関係に立つ損害保険会社に再就職しないなら、原告の年収に相当する一六〇〇万円の補償金を支払う旨の提案をした。それに対し、原告は、三年は長すぎる、再就職を避けるべき範囲を外資系の損害保険会社に限定して欲しいといった意見を述べたが、被告代表者は、被告の提案は標準的な契約であり、したがって、三年未満に期間を限定することはしないし、また、国内外すべての企業を対象とする旨回答した。そこで、原告は、被告代表者に対し、検討する時間が欲しいと述べてその日は即答を避けた。
その後、原告は、被告から退職日は平成八年一二月三一日とするが、出社は同年一一月三〇日までとすることについて了解を得た。また、原告は、同月一五日ころ、松本副社長からの催促に応じて被告に対し、退職届を提出し、右退職届(書証略)に「なお、退職後三年間を限度に、競業行為を行う同業他社に再就職しないことを条件とする貴殿の提案を受け入れます。万一、期間内に該当する企業への再就職の機会があったときは、事前に貴殿に相談の上、承認を得ることを条件とします」と付記した。
3 一方、被告代表者は、原告への提案の後間もなく、被告の監査役であったジョン・ゲイナード(以下「ゲイナード」という)を通じて、被告の顧問弁護士らに本件競業避止契約の契約書の原稿の作成を依頼した。
また、そのころ、原告が被告と競業関係に立つリバティー保険会社に入社するのではないかとの噂が被告内で流れていたことから、平成八年一一月二一日ころ、松本副社長が、原告に対し、再就職を避けるべき会社をリバティー保険会社に限定し、補償金を増額する旨被告代表者に提案する旨述べた。
しかし、被告代表者から原告に対する回答のないまま、平成八年一一月二九日になって、原告の離席中に、その執務机に本件競業避止契約の契約書に該当する英文と日本文二通の「誓約書」(書証略)が置かれ、松本副社長の作成した、内容確認の上、了解するのであれば、契約書を取り交わしたいと被告代表者が述べていること、ゲイナードに連絡して欲しいことなどを記載したメモが添えられていた。
なお、右「誓約書」には、競業避止期間として三年と記載され、再就職を避けるべき損害保険会社の範囲について外資系の損害保険会社という限定はなかった。
4 原告は、平成八年一一月二一日ころの松本副社長の話と「誓約書」の記載内容が異なっていたので、平成八年一二月六日ころ、松本副社長に問い合わせたところ、松本副社長は、被告代表者が「誓約書」の内容を変更する理由はないと考えていることを回答し、また、原告のかつての部下であり、当時は原告の後任者が決まるまで被告において原告の従事していた業務を代行していた北原からも、被告代表者の意向として「誓約書」の内容変更には一切応じられない旨の返答があった。さらに、原告は、平成八年一二月に入り、北原を通じて被告代表者と連絡を取ろうとしたが、被告代表者の休暇の関係もあって連絡が取れずにいたところ、平成九年一月八日ころ、北原から、被告代表者が、取引は平成八年一二月三一日で終了したと述べた旨の回答があり、結局、被告から原告に対し、本件競業避止契約に基づく一六〇〇万円は支払われなかったが、平成八年一二月二七日、被告の規定どおりの退職金等の合計一二七五万〇六八七円は支払われた。
なお、この間、原告は、本件競業避止契約に関し、ゲイナードに連絡を取ることはなかったが、平成九年六月一七日付けのゲイナード宛ての書面(書証略)で本件競業避止契約に基づく一六〇〇万円の支払いを要求しているところ、右書面には、北原に対し、「誓約書」の提出について六か月の猶予を与えて欲しいとの申入れをした旨の記載がある。
二 「誓約書」に原告の署名がないことについては、当事者間に争いのないところ、原告は、本件競業避止契約は、諾成契約であり、双方の合意により成立するもので、契約書を交わしていないからといって契約が成立していないということはできないとし、原告作成にかかる平成八年一一月一五日の被告代表者宛ての退職届の提出をもって、原告は被告の提案を承諾したのだから、その時点で本件競業避止契約が成立した旨主張する。
まず、一般論として、本件競業避止契約が双方の合意により成立する契約であり、契約書の作成が契約成立の要件でないことは原告主張のとおりである。そして、退職届(書証略)には、被告代表者の提案を受け入れる旨の記載があるのは、前記のとおりである(なお、被告代表者は、その本人尋問において、原告の退職届を見ていない旨供述するが、原告が被告に対し、退職届を提出したのは前記のとおりであり、たまたま被告代表者が見ていなかったとしても、被告が受領していないということはできない)。
しかし、この時点における原告の本件競業避止契約に対する理解は、期間を三年、再就職を避けなければならないのは外資系の損害保険会社に限定されるというものであり(書証略)、そもそも、競業避止の対象を外資系の損害保険会社に限定する趣旨ではなかった被告代表者の提案と一致していない上、退職届に記載されている「期間内に該当する企業への再就職の機会があったときは、被告の承諾を得る」という部分については、平成八年一一月六日、被告代表者から原告に対して本件競業避止契約の申入れがあった際に話題になった形跡もない。
これらのことからすると、この時点で、期間を三年とし、日本法人、外国法人を問わず、被告と競業関係に立つ損壊保険会社に再就職しないことを条件として補償金を支払う旨の合意が成立したというには疑問がある。
また、原告は、「誓約書」に署名しなかったのは、その第四項に「原告は、一六〇〇万円以外に被告からいかなる支払いをも受ける権利がないことを確認する」旨の記載があったこと(書証略)から、一六〇〇万円のほかに規定どおりの退職金等を受領できなくなるのではないかと考えたからにすぎないと主張し、原告は、その本人尋問において、「誓約書」の記載を見て、規定どおりの退職金等が支払われないのではないかと危惧したこと、一六〇〇万円のほかに規定どおりの退職金等の支払いが受けられるなら、自分の疑問は晴れると思っていたことなどを供述する。
しかし、他方、原告は、「誓約書」に署名しなかった理由について、その本人尋問において、前記の平成八年一一月二一日ころの松本副社長が述べた再就職を避けるべき対象をリバティー保険会社に限定し、補償金を増額する旨被告代表者に提案するという話と全く異なるものであったためという趣旨の供述もしている(なお、原告は、松本副社長の提案について、松本副社長にその権限があることを前提として、合意内容の変更の申入れであると主張するようであるが、原告作成の陳述書(書証略)によっても、前記のとおり、松本副社長は、再就職を避けるべき損害保険会社をリバティー保険会社に限定することと補償金の増額を被告代表者に提案してみると述べたにとどまることが認められることからすれば、松本副社長には、本件競業避止契約の締結に関する権限はなく、被告代表者と原告とのいわゆる仲介役にすぎなかったことは明らかであり、原告もそのことを承知していたというべきであるから、松本副社長の提案が合意内容の変更の申入れであるとみることはできない)。
さらに、原告の疑義が条項の解釈についてのみであれば、被告へ問い合わせれば、容易に判明するものであったにもかかわらず、この点に関して、ゲイナードに問い合わせるなどの手段を全く採っていないばかりか(原告本人尋問の結果)、前記のとおり、原告は、平成八年六月一七日付けのゲイナード宛ての書面(書証略)において、原告が「誓約書」に署名しなかった理由について縷々述べているが、それには「誓約書」の第四項の解釈に疑義があったことには一切触れられておらず、専ら再就職を避けなければならない損害保険会社の範囲に関すること及び本件競業避止契約に関する原告と被告の交渉の経過がリバティー保険会社の知るところとなっており、原告の再就職活動に支障が生じるおそれがあったことなどが記載されているにとどまるのである。また、前記のとおり、原告が、平成八年一二月六日、松本副社長や北原を通じて被告代表者に確認しようとしたのも再就職を避けなければならない損害保険会社の範囲についてであり、このときも「誓約書」の第四項の解釈に疑義があることになど一切触れられていない。そもそも、前記のとおり平成八年一一月五日、原告が松本副社長に打診したのが、規定どおりの退職金等のほかに年収程度の特別退職金の支払いは可能かというものであり、被告代表者が原告の年収に相当する一六〇〇万円という金額を提案してきたことからすれば、原告にとっても、被告にとっても規定どおりの退職金等に一六〇〇万円を加算して支払うことを前提として交渉は進んできたものということができる。
これらのことからすると、「誓約書」第四項の記載を見て、規定どおりの退職金等の支払いが受けられないのではないかと危惧したとする原告本人尋問における供述部分はにわかに信用することができない。
右によれば、原告が誓約書に署名しなかった理由が「誓約書」第四項の解釈に疑義があったためであるということはできず、かえって、前記のとおり、松本副社長や北原を通じて被告代表者に対し、再就職を避けなければならない損害保険会社の範囲を限定していない誓約書の条項の変更可能性について確認していたこと、右の点について変更はあり得ないとの回答を得た後も「誓約書」に署名していないことからすれば、原告としては、本件競業避止契約の最重要部分ともいうべき競業避止の対象について被告の提案に納得しなかったために「誓約書」に署名しなかったものと推認することができるのであって、そうだとすれば、本件競業避止契約は、原告が被告を退職した平成八年一二月三一日時点では、原告と被告との間で意思の合致はなく、したがって、合意には至っていなかったものと言わざるを得ない。
なお、前記によれば、原告が北原に対し、「誓約書」の提出を六か月間猶予して欲しい旨被告に対して申入れた形跡はあるものの、「誓約書」に関する問い合わせ等の被告側の窓口はゲイナードであり、そのことは原告も承知していたというべきであるから、原告の後輩で、後任者が決まるまで、従前の原告の業務を代行していたにすぎず、本件競業避止契約に関し何らの権限もない北原に対して、猶予を申入れたとしても、それをもって被告に対する申入れをしたということにはならない。また、被告としては、原告がその退職後被告と競業関係に立つ損害保険会社に再就職する可能性が濃厚であったことを前提として、そのリスクをあらかじめ回避することが目的であったのであり、原告が本件競業避止契約に合意しないまま退職した以上、その目的を達することができないと考えたとしても、特段不自然な点はなく、平成九年一月ころ、被告代表者が取引は終了した旨回答していることからすれば、六か月の猶予に応じる意思がなかったことは明らかであり、結局、原告の退職当時、本件競業避止契約の成立に至らないまま、被告の提案は撤回されたというべきである。
三 以上の次第で、原告の請求は理由がないから棄却することとし、訴訟費用の負担について、民事訴訟法六一条を適用して主文のとおり判決する。
(裁判官 松井千鶴子)